ビデオグラファーが演出家として成功するためのヒント


AOI Film Craft Lab.では、ビデオグラファーが成功するプロセスの1例として、「ノンフィクション(“Take”)を極めた先に、広告映像の演出がある(“Make”)」というプロセスを挙げています。 今回は、“Take”と “Make”のかかわりや、“Take”から “Make”へむかうプロセスをより深くさぐるため、 〈ビデオグラファー〉の先駆けとしてキャリアをスタートし、業界を代表する演出家となられた3名のクリエイターをお招きし鼎談していただきました。ファシリテーターは、大石健弘監督です。

【プロフィール】
柘植泰人 Yasuhito Tsuge
Director [November]
1983年愛知県生まれ。Vimeoで公開した草津、京都、美濃などの風景を収めた映像が反響を呼び、広告を中心に活躍の場を広げる。情緒あふれる映像感覚で、被写体の持つ魅力をナチュラルに捉えることを得意とする。主な仕事にGoogle、NIKE、大塚製薬などの広告映像、宇多田ヒカル「真夏の通り雨」「初恋」などのミュージックビデオを手がける。


大野大樹 Hiroki Ono
Director [CluB_A]
1985年神奈川県出身。カリフォルニア大学サンタクルズ校映画学部を卒業後、葵プロモーション(現AOI Pro.)に入社。現在ではCluB_Aに所属。近年の主な仕事は、『Pokémon GO』5周年記念映像「Adventures Go on!」など。   


【ファシリテーター】
大石健弘 Takehiro Oishi

Director [Happilm代表]
株式会社Happilm代表。横浜国立大学卒業後、葵プロモーション(現 AOI Pro.)に入社し多くのCMに関わったのち、独立。現在ではディレクター及びビデオグラファーとして活動中。監督作に、バンホーテンココア「理想の母親」や不二家ミルキーTVCM「みんなの笑顔」篇など。ライフワークではサプライズ映像も多数制作しており、YouTubeのHappilmチャンネルにて公開している。


第1回では、お互いの印象や映像にまつわる原体験、2000年代後半に始まった一眼レフでの映像制作と、キャリアのスタートについて語っていただいております。

同世代の映像監督としてお互いの印象

大石:僕は、柘植さんも大野くんもよく知っているつもりなんですけど、ふたりはお互いの印象ってどうですか?

柘植:大石さんは、僕と大野さんにリンクする部分があるんじゃないかっておっしゃってましたけど、「僕なんかが……」って思いますけどね。

大野:いやいや。

柘植:素晴らしい作品ばかりで、どうやって撮るんだろうって考えながら観ました。

大野:ありがとうございます。僕は、柘植さんの作品で一番印象に残っているのは、宇多田ヒカルさんの「真夏の通り雨」のMVですね。当時は、どなたが撮られたかって情報が全然なかった。「すごいよね」って大石さんと話していて、その流れで柘植さんのお名前を知りました。
僕はCANON EOS 5Dとか7Dが発売されたぐらいに、ちょうどAOI Pro.に入って演出を始めたんです。一眼レフはビデオカメラと違う画が撮れて、なおかつ安く借りられたので、それで色々撮って売れていった、というプロセスを経てきました。ですが近年は大石さんのいう “TakeとMake”(※)でいうと “Make”が多かったんですよ。そんなとき、ちょうど柘植さんの「真夏の通り雨」を見ました。
※Take=ドキュメンタリーのように、既にあるものを撮ること。Make=絵コンテや脚本などの計画に沿い設営して撮ること。


大野:これは絶対に “Take”じゃないと撮れないタイプのものだって、直感的にすぐわかりました。なおかつ、それがすごく美しかったので、ちょっと初心に戻ったんですよね。「ああ、俺、昔こういうの好きだったよな」って。まぁ昔っていうほど偉くなったわけではないんですが、感動したんです。柘植さんがすべてカメラを回されているかはわかりませんが、自分の足、自分の感覚、自分の目でアングルを切っているのを感じる。そういう距離感でしか撮れない画が多い。僕も原点回帰して、カメラマンを呼ばずに撮ってみようかな……みたいなことを、思わせてもらった。

柘植:ありがとうございます。

大石:大野くんも柘植さんも、最初に自分で撮影をしていたあたり「時代の申し子」という感じですよね。

映像にまつわる原体験

大石:ふたりはビデオグラファーとしての始まりを歩まれたのも同じくらいの時期なんじゃないかと思うんですが、それぞれ映像を始めたきっかけとか、原体験のようなものはありますか。

柘植:これ、というきっかけはないんですよね。高校生になって進路を考えたときに「そういえば映画が好きだなぁ」と。それまではサッカー選手になりたかったんですけど、映像を学べる大学があるらしいと知って、映像学科がある大学に入って……そのままの流れで飽きずに続けているだけなんです。強いていうなら、たしか一番最初に映画館で見た映画が『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART3』だった。ドクが好きで、小学校のときは発明家になりたいって言ってたんですよ。でも高校生のころ、ドクになりたいわけじゃなくて、そもそもあの映画が好きだったんじゃないかと気づいたんです。


柘植:なんでこの道に進んだんだろう、とは今でもときどき考えます。でも、一度決めてからはのめり込んでいた気がしますね。高校生のときは帰りにTSUTAYAに寄って、当時はまだVHSですけど、ミニシアター系の映画をレンタルして観ていました。あと、絵が上手じゃなきゃ映像学科に入れないんじゃないかと思って、デッサンを習っていましたね。

大石:夢のために動いていたんですね。

柘植:映像の学科に入るのは難しいんじゃないかと思っていたんです。だめだったら就職しようかな、ぐらいの気持ちも同時にあったんですけどね。

大石:柘植さんは大阪芸大に行かれたんですよね。そこでは映画を作っていたんですか。

柘植:課題で16mmの短い映画を作ったりはしたんですが、1年生が終わった段階で中退しちゃったんですよね。

大石:それは、なぜ?

柘植:ひねくれていたんだと思います。「このまま大学で同じように勉強して、果たして映画監督になれるのか」と。結局映画監督にはなれてないので、どちらが正解かはわからないですけど。それよりも違うことをして、色んな経験をして、勉強だけじゃないことで得られるものを得た方がいい作品がつくれるんじゃないか……みたいな。言い訳ですけどね。

大石:その考え方は、大野くんも近しいような気がしますね。

大野:そうかもしれません。ちなみに僕も『バック・トゥ・ザ・フューチャー 』はめちゃくちゃ好きですね。僕の原体験は、映画館に限定すると『ジュラシックパーク』かな。小学校2年生くらいで、初めて観た洋画だったんですけど、ものすごいインパクトだったんです。それより前は父親の影響もあって「ウルトラマン」とか「ゴジラ」とか特撮モノが好きだったんですけど、『ジュラシックパーク』の衝撃でハリウッド映画が好きになりました。


大野:小学校高学年のときは、映画監督というより特殊効果がやりたいなと思っていました。図書館で『スターウォーズ』のVFXをつくったILM(インダストリアル・ライト&マジック社)についての本に出会って、何度も読み返しました。監督というより「映像をつくる」ことに興味があったんです。

「世界で何かつくりたいなら、世界を見なきゃ」

大野:中学高校で進路を考え始めたとき、映画監督なんてみんななれるものじゃないな、とは思っていましたけど、やっぱり海外の映画には憧れがありました。今振り返ると、当時日本の映画がそこまで盛んではなかったのと、自分が割と「映像」に寄ったものが好きだったのもあって、アメリカで勉強したいと思ったんです。だから、中学校から英語を習わせてもらって、高校で1年間留学しました。大学も海外で、映像の学部で勉強をしました。
色んな経験をした方がいいんじゃないか、っていう柘植さんの思いは、ぼくの中学高校ぐらいのときの思いに重なりますね。たぶん、ずっと監督やりたいって、どこかで思っていたんですよ。でも、監督ってどうやったらなれるんだろう?    って不安や恐怖があって、映像の特殊効果をやりたいって言い訳をしていた気がするんです。本当はストーリーを作りたかった。中学生、高校生ぐらいになると、ミニシアター系とかストーリーがあるものが好きになってきて、感情が育ってきたので、ストーリーを作る方に進みたかった。でも「果たして僕に語れる何かがあるのか」と、ずっと考えていました。学校の勉強とか技術の勉強じゃないものを経験をしなきゃ、語れる何かは手に入らないんじゃないかって。未だにそう思ってる部分もあります。
だからアメリカに行ったのは、もちろん映像の勉強をする面はあったんですけど、世界を見なきゃ、と思ったんです。世界で何かつくりたいんだったら、世界を見なきゃ、って。大学で海外に行かせてもらったのはそれが理由です。映画の学部にいたんですけど、最初に想像してたハリウッドみたいなとこで映画の作り方を教えてくれるような場所ではなかった。僕がいたのは、北カリフォリニアの方にあるサンタクルーズというところです。ヒッピーとか、カウンターカルチャーをイメージしてもらったらいいかな。学部自体も、実験映画とかドキュメンタリーが主流で、「こうやってライティングするんだよ」「こうやってカメラ使うんだよ」みたいな、自分が知りたかった技術自体はあんまり教えてもらえなかった。どっちかというと「カメラ渡すから適当に撮ってこい」みたいな学校でした。すべてを自分たちでやらなきゃいけない。カメラもやるし、編集もやるし、そもそも話を考えるのもやる。
それが、僕にとって映像制作の原体験になっている気はしますね。

仕事としての映像制作へ

大野:ぶっちゃけるんですけど、大学のころ彼女が日本にいて、卒業したぐらいで子どもが生まれることになったんですよ。だから慌てて日本に帰ってきて仕事を探して……英語が喋れたのもあってAOIの国際部に入れたんです。「でも本当はディレクターになりたいんです」と言っていたら、そのときの国際部の上司が「CMのコンペがあるから出してみたら」と教えてくださって。それで先輩にもご協力いただいて、自分で撮影編集して出して、賞をいただくことができました。そんな流れで企画演出部に移してもらえたんです。
そのとき撮ったCMは、DVXっていうPanasonicのカメラで、24pで撮って、ちょっと映画っぽいルックにしました。Final Cut Proが出たばかりのころで、Red Giantってフィルターを使いました。アメリカの大学で流行っていたんですけど、AOIに入って広告でそれをやったら意外と驚かれましたね。自分で編集する先駆け、といってよかったのかもしれない。制作の人がiMovieでちょっと編集する、とかはあったかもしれないけど、基本的にはまだ「編集はエディターさんがやるもの」という世界だったので。
そのあたりから「自分でなんでもできるやつがいるんだよ」と社内で話題になり、メイキングの仕事をたくさんもらうようになりました。そしてちょうどそのタイミングでCANON EOS 5Dと7Dが出てきたんです。使ってみて「これめっちゃいいやん!」って。5Dで撮ってFinalCutで編集して渡す「ひとり完パケスタジオ」をやってました。
今でいうビデオグラファーに近かったのかな。

大石:大野くんは自主制作から仕事が降ってくる状態にまで持ってきたんですね。柘植さんは大学を中退したあと、どうやって仕事が得られるようになったんですか?

柘植:中退してからはあてもないので、とりあえず実家に帰ってフリーターになったんですよ。地元は愛知県なんですけど、完全に映像から離れてしまうのもなぁ……と思って、名古屋の俳優養成所みたいなところに行きました。講師の先生が来て、発声練習やエチュードをやるんです。フリーターをしつつ2年間ぐらい毎週日曜日にレッスンを受けて、エキストラの仕事があれば行く、っていうのやっていました。
思い返すと、大学にいたころは「監督しかやりたくない!」って感じだったんですよね。だから、カメラとか録音とか照明の授業があってもサボっていて、演技、演出、脚本の授業は好んで受けてたっていうか……これだけ受けてりゃいいや、って感覚だったんですよ。当然、それでは単位も取れなくて。でも実家に帰ってからは、友達の誕生日にメッセージビデオをつくっていたんですよね。家庭用のちっちゃいカメラで友達のコメントや寸劇を撮って、毎月のようにつくっていました。家で過ごす時間は、レンタルしてきた映画を観ているか、友達のメッセージビデオ作ってるいるかのどちらかで。それまでAdobe Premiereのような編集ソフトは使えなかったんですけど、実家に帰っていた2年間は、撮って編集して……というのをやり続けてました。 “Take”の原体験はそこかもしれません。
でも、22歳くらいになって、やばい、このままどうなるんだろうって気持ちが出てきて。大学の同級生は卒業して制作会社に入ったり、テレビのADになったり、映画撮ってる子もいたりして。自分は何やってんだろうって、道がなにも見えなくて。この先、どうしたらいいのか行き詰まりました。そんなとき東京にいた友達から、WEBの制作会社を立ち上げるという話を聞いたんです。それで「映像勉強してたんだったら一緒にやらない?」と声をかけてもらいました。WEBサイトをつくるにはこの先絶対に動画が必要になってくるし、そんな生活をしているんだったら東京来なよ、って。社員ではなかったですけど、じゃあ行こうかなって、東京に出てきました。

一眼レフ動画黎明期

柘植:ただまあ、そっから3年ぐらいは、また映像の仕事なんてほとんどなくて、色んなバイトで何とか生活していて、また実家に帰ろうかなみたいにもなったんですよね。友達の会社で企業のウェブムービーとかはつくっていたんですけど。周りに教えてくれる人はいないし、お金もらって映像を作る仕事をどうやっていいのかもわからない感じでやってたんですよね。ビジネスも独学で、ままごとみたいでした。
でもそのあとUstreamが日本で始まったのをきっかけに、仕事が忙しくなったんです。映像できるんだったらUstreamもやってよ、って感じで。
ただ自分のやりたいことはUstreamではなかったので、何かしないとな、とは思っていて、そんなときに5Dが出てきました。最初はUstreamを5Dでやったらいいんじゃないか、という話から始まったんですが、旅行に行ったとき試しに回してみて、編集してみて、短い旅動画を作り始めたんです。それが10年前ぐらいですね。そうやって、旅動画をつくり溜めていったら、ブログに紹介してくれた人がいて、その記事がちょっとバズったんですよね。
それでようやく制作会社から連絡が来て、チャンスがあったら一緒にやりませんかって声をかけてもらった。この業界への扉が開いたのは、そのときですね。

大石:元々、旅が好きで旅動画をつくっていたんですか?

柘植:いえ、Ustreamで5D使うんだったら、まず使い方を覚えなきゃっていうのが始まりで……当時はまだ、5Dをビデオグラファー的に使うって発想ではなかったと思います。
あ、でも、バイトで結婚式の撮影はしていましたよ。そこで独学のころよりもちゃんとした撮影編集を覚えた面はありました。

大野:ウェディングの撮影って、ディレクションといっても「現場を撮る」っていうことだと思うんですけど、撮影して編集までされていたんですか。

柘植:そうですね。

大石:ウェディングってまさに “Take”というか、その場でどう撮ってどう繋ぐかを全部自分で判断する作業ですよね。

柘植:その経験が旅動画に生きた面はあったと思います。

大石:大野くんは企画演出部に転向して、最初はどういった仕事をしていたんですか?

大野:いきなりクライアントワークだったんですよ。一番最初にやったのがそのセコムさんの仕事です。セコムさんのマークってお店の前とかについているじゃないですか。世界を旅して、各国にあるマークと周りの風景を撮るっていう仕事で、いきなり大きいクライアントワークで、パニックになりましたね。
英語を喋れたのもあって、AOIの佐々木竜真プロデューサーから、お前やってみないかって声をかけられたんです。予算も少なかったので自分でカメラ回して、なおかつ現地でコーディネーターまでやって、通訳もやって。国際部だったから(笑)。

柘植:えー!

大野:監督やって撮影やって、編集も全部やって……と、なんか今思い返すとめちゃくちゃな話ではあったんですけれど、それが1作目です。ひたすら撮って、素材の量がおそろしいことになったんですけど、出来上がったものの見え方は、ちょっと新しかった。あのころ5D以外のカメラって、相当大きかったじゃないですか。プロが持たなきゃ不安定で、脚がなきゃいけないって大きさでしたよね。ステディカムもあったけど、手持ちで揺れてる絵に対して、あのころはまだみんなの許容がなかった。だから、持っていってどこでも撮影できる5Dはすごかったですね。
あとは、7Dで60fpsが撮れるようになったのも大きかった。それで「なんかこの映像かっこいいぞ」っていう見え方がつくれるようになったと思います。それがまず1本目で、次から仕事が来るようになりましたね。

自分で撮影し編集するということ

大野:“MakeとTake”の文脈で話すと、いきなりクライアントワークだったので “Make”を強制されたところはある気がしますね。ただ自主的にあるものを撮ってくるだけではなくて、こういうことを言いたいとか、こういう雰囲気を出したいっていうクライアントのオーダーがある。初期の頃にそういう状況を経験して、苦しんだ記憶はあります。これまでやってきた “Take”にプラスして、何をしたらいいのかわからなかった。
一方でメイキングはほとんどオーダーがなくて。「タレントがいるときは、タレント中心に、作り方が面白い時は作り方を中心に撮って」ぐらいしか言われなかったので、すごく楽しんで、ガンガン撮って繋げて……ってやっていましたね。そんな感じのスタートだったかな。

大石:僕が印象として覚えているのは、大野くんはメイキングをつくるとき、冗談混じりではあったけど「本編を超える」宣言をしていましたよね。編集も「このくらいでいいや」っていうのは絶対なくて、熱意を持ってチャレンジしていたように思います。

大野:まぁちょっと、粋がっていたかもしれないです……(笑)。
僕のバックストーリーで言うと、子どもが生まれたのが大きかったかもしれない。できちゃった婚で、日本に戻ってきて、仕事なくてやばい!    って中で、最初は映像関係なく、英語を使って外資に就職しようとか思っていたんですよ。それまでずっと映像をやってきてきたけど、とりあえず家族には飯を食わせなきゃいけないし。でもそのとき、妻のお父さんに「そういうの気にしなくていいから、とりあえず自分のやりたい夢を追いかけろ」みたいなことを言われたんですよね。もう家族だから、助けられることは助けるからって言ってもらって。それでなんかすごい、もう、ぐっときちゃって。
じゃあ映像を頑張ろうって思ったんです。ディレクターになるずっと前、入社した1年目で子どもが生まれて「ここで俺がなんとかしないと、やばいぞ」感はありました。だから同期に比べると、感覚もちょっと違ったとは思います。映像でやるって決めたものは決めたので、そこは頑張るぞと思っていました。
あとは、一応会社にいたので、日本のテレビCMをたくさんみたんですけど、ちょっと粋がった言い方をしてしまえば、正直そんなにいいと思えなかったんですよ。フィルムももちろんあったけれど、ビデオカメラが主流で。
でも、5Dで「いい画が撮れている」って感覚はあった。5Dを使うと、被写界深度の浅いあの感じが自分で出せるってのがわかっていたから、「俺の方がいいものつくれるんじゃないか」って、思い込みたかったとい。そういうチャレンジ精神は確かにあった気がします。

大石:大野くんは傍からみたら「まだ編集してんの?」ってぐらい時間をかけてたイメージですね。

大野:撮影や編集が単純に好きでしたね。大学の頃から撮影と編集をやっていて、そこはすごく好きなんだろうなって、今でも思います。その「好き」を伸ばしてくれたのが、5DとFinal Cut Proだった。
もしも、カメラマンさんに頼んで撮影してもらって、エディターさんに頼んで編集してもらって……というのが最初だったら、自分の好きがうまく引き出せなかったような気がするんですよ。ひとりでパソコンの画面に向き合って、好きなことをできるのがよかった。時代にマッチしてたっていっていいかわからないですけど、自分の手の中に、そこそこいい画がつくれるツールがあるっていうのはよかったですね。


★連載は全5回を予定しています。

次を読む